ごあいさつ

本日は、なごみ管弦楽団第17回定期演奏会にお越し頂き、誠にありがとうございます。「名曲を楽しく、なごやかに」本演奏会のテーマは「音楽で旅をする」。1曲目のフィンランディアは、フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの作品。2曲目のモーツァルト交響曲第38番は、その初演の場所である「プラハ」の名を冠しています。そしてメインのチャイコフスキー交響曲第2番は、小ロシア(ウクライナ)の民謡が作品に取り入れられています。個性も雰囲気も異なる3曲をお楽しみ頂ければと存じます。
当団は17年前、「2週に一度、仲間が集まって音楽ができる場があればいいね」との想いで活動が始まりました。年1回の演奏会を目標にしつつ、普段の練習でのアンサンブルを大事にして年間を通して活動しています。ここ2年ほどは、練習冒頭に「互いの音を聴きあう」ことを意識してハーモニーの基礎練習を取り入れています。
本日も、我々の響きを出せるよう、心をこめて演奏します。最後までゆっくりとお楽しみください。

なごみ管弦楽団 一同

演目紹介

◇シベリウス:交響詩「フィンランディア」

ロシアとフィンランドとの関係を考えてみたとき、話は19世紀初頭に遡る。ロシアとスウェーデン(19世紀初めの時点でフィンランドを領有していた)はもともと対仏大同盟の同盟国であったが、ナポレオン1世率いるフランス帝国軍に第四次対仏大同盟軍が敗れて対仏大同盟が解体した後、ロシア帝国はフランス帝国と和解し、フランス帝国の主導する大陸封鎖令に参加することとなった。この結果スウェーデンはフランス帝国の敵対国となった。
ロシア帝国はフランス帝国とスウェーデンの和解を画策したが決裂したため、1808年2月、フィンランドを舞台とした第二次ロシア・スウェーデン戦争が勃発した。これはロシア帝国の勝利に終わり、結果としてフィンランドはロシア帝国下の保護国フィンランド大公国となったのである。
開明的な啓蒙君主であったロシア皇帝アレクサンドル2世の下、着々とフィンランド人の民族的基礎が築かれていったが、やがて、文化も宗教も異質なロシア人に支配されることによる自らのアイデンティティの問題に直面する。
フィンランドの民族叙事詩カレワラが出版されたのは1835年のことであった。1848年のヨーロッパ革命の後、デンマークで絶対王政が崩壊し民主主義が成立すると、フィンランド人の間でも学生を中心に民主化運動とナショナリズムは高まりをみせた。一方でロシアは次第に反動的になっていった。特に1871年のドイツ帝国の成立と、1894年の露仏同盟により対独関係の破綻したロシアは、きたるべき対独戦争の準備のため中央集権化を進めていった。
この施策のひとつとしてフィンランドのロシア化政策が含まれており、フィンランド人の自治権の剥奪、公用語のロシア語の強要などが実施され、フィンランド人の間でロシアへの反発と民族意識の目ざめが見られるようになる。
ジャン・シベリウス[1865-1957]もこの時期に愛国心をかき立てられたひとりで、1899年に発表された、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』ではその愛国心をあけすけに表現したことにより一躍国民的英雄の地位を手にすることになる。同年11月の『新聞の日』祝賀会では6幕物のフィンランド語の歴史劇の音楽を担当し、最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。この楽曲に翌年改訂を施したものが本日演奏する『フィンランディア』作品26である。
さて、フィンランドのその後であるが、第二次世界大戦でナチス・ドイツに接近したことから敗戦国となり、また戦後は政治的にはソビエト連邦の影響下にあったが、一方で資本主義経済圏に属したことで経済的には東西諸国の橋渡しとなり、その立ち位置に絶妙なバランスを保ってきた。しかしながら、2022年2月より始まったロシアによるウクライナ侵攻を受けて、「西側諸国連盟」のひとつとされるNATOへ加盟するなど、急速にロシアからの距離を置きつつある。(みよし)

◇モーツァルト:交響曲 第38番 「プラハ」

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト[1756-1791]のプラハ訪問の直接の動機は、1783年に制作し、ボヘミア王国の国立劇場で最初に上演されたオペラの一つである『後宮からの誘拐』が大盛況だったことで、プラハにおいてモーツァルト作品への関心が高まったからであった。この公演によりプラハ市民はモーツァルトの器楽に対する関心を高め、1786年5月にウィーンで初演された際にはあまり受けがよくなかった『フィガロの結婚』が1786年12月にこの劇場で上演され、大成功を納めたことで、モーツァルトがプラハに招かれることになった。
本日演奏する交響曲第38番はこのときにプラハで開かれたコンサートのために書かれた。1787年1月22日、モーツァルトはプラハで自ら『フィガロの結婚』を指揮したが、この交響曲はそれに先立って初演されたものである。
モーツァルトとプラハの関係であるが、その後も何度かモーツァルトはプラハを訪れ、また死後にはプラハ市民から深い哀悼の念を受けるほどであったが、モーツァルトは結局プラハに住むことはなかった。その理由は諸説あるが、一番大きいのはやはりウィーンが当時音楽の先進の地であった(つまり、音楽的才能に恵まれ、また得られる地位も名声も高かった)ことに尽きるのではないかと思う。(みよし)

◇チャイコフスキー:交響曲 第2番 「小ロシア」

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー[1840-1893]はその出自からしてウクライナに縁がある。その姓「チャイコフスキー」はウクライナ系の姓「チャイカ」(「カモメ」の意)から来ており、地方名士として成功した祖父の代で「チャイコフスキー」を名乗りはじめ、ピョートル・イリイチの代に至る。
ピョートルは1840年、8人きょうだいの4番目(ただし、上から2番目の姉が生後まもなく亡くなっているので実質的には7人きょうだいの3番目)として父イリヤ、母アレクサンドラの間に生まれた。きょうだいの中でとりわけ親しかったのは、妹のアレクサンドラと双子の弟アナトリーとモデストだった。
この妹のアレクサンドラの嫁ぎ先であるウクライナのカミャンカにピョートルは度々訪れており(記録に残っているだけでも生涯で36回)、いくつかの著名な作品はここカミャンカで書かれている。たとえば、1869年6月の滞在時には弦楽四重奏曲第1番(1871年作。第2楽章がよく知られる「アンダンテ・カンタービレ」)の素材となる民謡を採取している。また後年には同地で交響曲第4番やオペラ『エフゲニー・オネーギン』のオーケストレーション作業を行っている。
本日演奏する交響曲第2番もこのカミャンカに縁のある作品である。手法としては「アンダンテ・カンタービレ」と同様に現地の3つの民謡を題材としている。これらの題材は1872年7月のカミャンカ滞在時に採取された。

第1楽章 冒頭においてホルンのソロにより民謡『母なるヴォルガの畔で』が奏でられる。第2主題は、リムスキー=コルサコフが演奏会用序曲『ロシアの復活祭』で用いた旋律を利用している(が、趣はだいぶ異なる)。

第2楽章 元来はオペラ『ウンディーネ』の結婚行進曲として作曲されたものである。中間部で民謡『回れ私の糸車』が引用されている。

第3楽章 チャイコフスキー独自のメロディーによるスケルツォとトリオではあるが、3小節単位(トリオは4+2小節単位)の進行に時折2拍子系のリズムが混じる構成となっており、全体に民謡のような趣を感じさせる。

第4楽章 壮麗なファンファーレで曲が始まるが、これは民謡『鶴』の断片である。速度が上がってからはこの『鶴』の調べが色とりどりの変奏曲へと変貌していく。

第4楽章についてピョートルは、初演の成功は自分自身の手柄ではなく「作品の真の作曲者ピョートル・ゲラシモヴィチ」のお蔭というのが真相なのだと述べたことがある。ゲラシモヴィチは、妹アレクサンドラの嫁ぎ先であるダヴィドフの家の年長の使用人で、ピョートルが本作に取り組んでいる間、作曲家に民謡『鶴』を歌って聞かせたのであった。

本作の副題の「小ロシア」であるが、作曲者によって付けられたものではなく、当時のモスクワの著名な音楽評論家ニコライ・カシュキンから進呈された愛称である(所以はもちろん、ウクライナ民謡を作中で効果的に使用していることによる)。2022年2月より始まったロシアによるウクライナ侵攻を受けて、現代では蔑称ともされる「小ロシア」の名を避けて本作を「ウクライナ」と呼ぶ動きが一部であったが、この動きが定着しなかったことと、「小ロシア」が蔑称とされたのは概ね20世紀以降であり、作曲当時にはネガティブな意味合いはなかったと考えられるため、本演奏会では「小ロシア」を副題として採用している。(みよし)