ごあいさつ

本日は「なごみ管弦楽団」第 10 回定期演奏会にお越しいただき、誠にありがとうございます。

私達なごみ管弦楽団はこの 10 年、9 回の定期演奏会で、創立時目標のベートーヴェン交響曲全 9 曲と数多の名曲をお届けすることができました。多くはない人数で助けあって練習と運営に努めてきましたが、多くのご支援があって実現できたことであり、団員一同、感謝の念を忘れることはありません。私達のシーズンIIの始まりにあたっても、これまでの全てのつながりに深い感謝を抱きつつ、新たな出会いと経験を求めて前進を続けたいと願っています。

今回は、団員の一人が書き下ろした力強く清新な序曲、昨年の「第九」練習でもお世話になった素敵なピアニストをお迎えしての美しい協奏曲、ベートーヴェンを敬慕し続けた大作曲家が構想から 20 年余をかけて完成させた交響曲第一番を、心をこめてお届します。

なごみ管弦楽団 団員一同

独奏者紹介

ピアノ 上田 聡子

桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科卒業。同大学声楽部会伴奏研究員修了。米国ヴァージニア州立大学音楽学部、及びアスペン音楽祭の公式伴奏員を務める。蘭国アムステルダム(スヴェーリンク)音楽院を UM 資格(国家演奏家資格)を得て卒業。在欧中伊国ジェノバにおけるスクリアビンセミナーにて最優秀に選ばれ、奨学金を授与され、修了演奏会に出演する。

帰国後は東京オペラシティでのリサイタルをはじめ、歌曲の伴奏やオーディション、室内楽、オペラや合唱団等のピアニストを務める。小学校等での鑑賞教室や、病院や老人ホームの慰問コンサートなどを行う傍ら後進の指導にもあたる。

演目紹介

◇関泰久/あたらしい時代への序曲

作を作曲するきっかけとなったのは、今年(2016 年)の 4 月に本楽団の事務局長より「今回の演奏会で、貴方(関)の作品を演奏することも検討したい」と伝えられたことでした。勿論願ってもないことであり二つ返事で了承したのですが、さて本楽団で演奏できるような編成の作品は過去作にはない、構想中の作品の要素を使い回すにしてもいまいち合致しない、それならば完全新規でと書き下ろしたのが本作品です。

標題の「あたらしい時代」というのはベートーヴェン交響曲全曲演奏を終えて次のステップへ進む当楽団の立場(上記ごあいさつ中の「シーズンII」)と、昨今の社会情勢との、二重の意味を込めています。今の時代がどのようなものであるかについて様々な考えがあると思いますが、私の考えは以下のとおりです。

少なくとも 20 世紀後半(高度成長期やバブル期)のような希望には満ちておらず、世界的に個人主義・民族主義・宗教原理主義が跋扈

表現規制の機運もあり閉塞感が強くなっている時代…

英国や米国の事例が象徴しているとおり…

表現規制に関して極端な話、本作のような古典的な構成のものを新作として発表することは許されない社会になる可能性すらあり得るのではないでしょうか。そのような厳しい情勢にあっても、せめて未来に希望を持ち続けたいという思いをこの曲に込めております。

とはいえ上記はあくまで私の個人的な考えでありますので、聴衆の皆様それぞれが本作品によって「あたらしい時代」を感じていただければ幸いです。(関泰久)

作曲 関泰久

1975 年群馬県高崎市生まれ。高校の頃より作曲を始める。代表作は交響曲第 1番ヘ長調「碧き清流」(2002 年)、ピアノ三重奏曲ロ短調「哀歌」(2006 年)、管弦楽のためのセレナーデ(2007 年)。

作曲の発表はウェブサイトにて。

http://officeacer.net/

なごみ管弦楽団創設以来トロンボーン奏者を務める。

◇グリーグ/ピアノ協奏曲

ノルウェイの作曲家・エドヴァルト・グリーグ(1843-1907)の 25 歳の時の作品。若い感性でノルウェイの厳しくも雄大な大自然を鮮やかに切り取ったかのような、世界で最も人気の高いピアノ協奏曲の一つである。

第 1 楽章

ティンパニとピアノで導かれる「峻厳なフィヨルドを切り裂いて海に流れ落ちる滝のような」冒頭部に続き、ノルウェイ民謡をモチーフにしたといわれる主題が続く。ピアノ独奏の最大の聴かせどころ・カデンツァは、華やかな技巧を駆使しながら、まるで北欧神話の冥府の底を覗き見るような懊悩に満ちている。

第 2 楽章

暖炉でコケモモのジャムをゆっくり煮るような、温かな香りのするメロディは、弱音器を着けた弦楽器で奏でられる。中盤のピアノは星のきらめきのごとくにロマンティックである。

第 3 楽章

民族舞曲風のピアノに合わせ、オーケストラの楽器がステップを踏み鳴らす。やがて甘やかなピアノに導かれ、極北の海を曙光が照らす。再びピアノによる舞曲が、作曲家の故郷に生きる人々の息吹を伝えて、一連の絵画を観るような音楽は完成する。(稲垣ちひろ)

◇ブラームス/交響曲第 1 番

第 1 回から第 9 回までかけてベートーヴェンの交響曲全曲を演奏してきた我々なごみ管弦楽団は第 10 回の記念演奏会を迎え、それにふさわしいベートーヴェンの交響曲第 10 番とも呼ばれるブラームスの交響曲第1番を初演 140 年の年に演奏するはこびとなりました!

しかし、この曲は本当にベートーヴェンの交響曲第10 番ということができるのでしょうか?「ベートーヴェンの交響曲第 10 番」という名称はブラームス本人が名付けたものではありません。ほかの人の命名です。(指揮者のハンス・フォン・ビューローが名付けたといわれています。)

また、この曲にはベートーヴェンの交響曲第 9 番との類似点はあまりないように思われます。合唱はない純器楽作品ですし、調性も異なります。(ハ短調→ハ長調で暗→明というのであればベートーヴェンなら第 5 番がすぐに思い浮かびます。しかも偶然なのかベートーヴェン第 5 番が作品 67 なのに対してブラームス第 1 番は作品68。)

ベートーヴェン第 9 番の延長上でないとして、ベートーヴェンの交響曲自体の後継という意味でもブラームスの第 1 番はかなり毛色が異なっています。

・ベートーヴェンが創設しかなり力を入れていたスケルツォ楽章がない。

・ベートーヴェンの交響曲ではあまり散見されない長いソロの旋律が随所にみられる。

もしかしたらスケルツォがないのはベートーヴェンとブラームスの性格の違い(気性の激しかったベートーヴェンに対してブラームスは温和だったらしい)かもしれません。長いソロが多いのは構成よりも感情の奔出を重んじたロマンティックな傾向の表れで、師のシューマンの影響かもしれませんね。

いずれにしても、この曲を練習しているとブラームスの第 1 番はベートーヴェンにない新しいさや感覚がたくさん感じられ、ブラームスがこの曲の作曲に 21 年も費やしたのはベートーヴェンの跡を継ぐためではなく、ベートーヴェンの影響を脱して新しい何かを作りたいという葛藤のためだったと思えてなりません。

第 1 楽章

温和なブラームスが過激なベートーヴェン以上に熱さをもって書いた序奏と激烈な第 1 主題は「ベートーヴェン越え」を意識した雰囲気だがすぐに弛緩極まる第 2 主題が訪れる。ベートーヴェンは第 2 主題も弛緩しない。ブラームスはロマン派だなあと思う。ただ経過句に現れる 3 連音はベートーヴェン第 5 番を思わせる。

第 2 楽章

ベートーヴェンにはなかった哀愁に満ちた長調。中間部にかけて長いオーボエのわびしいソロを長いクラリネットのソロが受けて励ますという構図はマーラー交響曲第 5 番第 3 楽章の先例となっている。後半から終結にかけてはこれまたベートーヴェンには見られない長い1st ヴァイオリンのソロが可憐な旋律を歌いあげる。

第 3 楽章

ベートーヴェンならスケルツォを置くところであるが意表をついてクラリネットの独奏で始まる素朴な小品の趣きである。素朴というか子供っぽい。第 2 楽章が大人の香りなら第 3 楽章は子供の匂い。途中できかん気なところもあるが最後は母胎に戻るような趣き。

第 4 楽章

ここで初めて、ベートーヴェン第 9 番を想起させる場所が現れる。それは暗→明の構造でもなければ「第九」終楽章の合唱主題に類似するといわれている主要主題でもない。突如出現するトロンボーンのコラールに神を感じるところだ。あくまで神が降臨するところが「第九」的であって旋律はワーグナー的なのも憎い。まさに「新しい光を!」と叫んでいるようだ。

…こうして見てくると、ブラームスはベートーヴェンを超えて新しい何かを模索した結果がこの労作と感じられてなりません。我々なごみ管弦楽団もこのブラームスの第 1 番に力をいただき今回の演奏会を新しい門出としたいと思っています。(小西淳)