ごあいさつ
本日は、なごみ管弦楽団第18回定期演奏会にお越し頂き、誠にありがとうございます。「名曲を楽しく、なごやかに」今年のプログラムは、特に著名な名曲が並びました。その中でも、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲は、気鋭のチェリスト、河野明敏さんの豊かな音色とともにお送りします。
河野先生は私たちの練習に多くの回数参加頂き、時に激しく時に情感豊かに、作るべき音楽を我々にはっきりと示して下さいました。本日その成果を披露できることを嬉しく思います。後半のブラームスの交響曲第4番は古典の様式と独創性が融合した円熟の傑作で、作曲家自身が「自作で一番好きな曲」と述べています。秋の午後のひととき、皆様に心をこめてお届けします。
なごみ管弦楽団 一同
独奏者紹介
チェロ 河野明敏
1994 年北九州市に生まれ、10 歳より北九州市ジュニアオーケストラにてチェロを始める。同楽団での活動を通して音楽やチェロの楽しさに魅了され、チェリストとして生きていくことを決意。
これまでにチェロを加治誠子、宮田浩久、上村昇、河野文昭の各氏に、室内楽を東誠三、市坪俊彦、植村太郎、漆原朝子、坂井千春、中木健二の各氏に師事。またピアノ三重奏団「トリオ デルアルテ」のメンバーとしてサントリーホール室内楽アカデミー第 5期に在籍し、同アカデミーファカルティの薫陶を受ける。
京都市立芸術大学音楽学部卒業、東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程修了。第 1 回杉並公会堂ベヒシュタイン室内楽コンクールにて第 1 位および審査員特別賞を受賞。湧き上がる音楽祭祝祭管弦楽団、北九州市ジュニア OB オーケストラ、Blue-T コンチェルト管弦楽団と協奏曲を共演。フリーランスのチェリストとしてソロ、室内楽、オーケストラと幅広く演奏活動を行っている。
演目紹介
◇モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[1756-1791]は1784年にフリーメイソンに入会し、彼の作品のいくつかにはその影響が見られる。歌劇「魔笛」もそのひとつで、フリーメイソンの仲間である歌手のエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために作曲を発注したとされる。
フリーメイソンでは「3」と「b」の両文字が特別な意味を持つとされ、bに似た記号の♭3つの調、すなわち変ホ長調もしくはハ短調がフリーメイソンの儀式の音楽には適していると考えられている。「魔笛」は劇中にフリーメイソンの教義を盛り込んでいるとされており、本日演奏する序曲は変ホ長調で三和音が3回鳴るところから始まる(この「3回の三和音」はフリーメイソンの入会の儀式を象徴しているとされる)。また、登場人物も夜の女王の3人の侍女、3人の童子、3人の神官と3人で一組になっていることが多い。劇の設定も、叡智、理性、そして自然の3つの神殿が登場し、主人公の王子タミーノはこの3つの神殿の扉を開こうとする。
現代ではオペラの一種に分類される本作「魔笛」だが、正確にはジングシュピール(ドイツ語により上演される歌芝居もしくは大衆演劇の一種)として書かれており、曲間を繋ぐ部分がレチタティーヴォではなく地のセリフとして展開されるため、改変されたりしてあまり正確に伝わっていない。よって演出(解釈)の余地が大いにあるわけだが、それでも上記したフリーメイソンの影響の部分はやはり参照されることが多いようである。(みよし)
◇ドヴォルジャーク:チェロ協奏曲
アントニン・レオポルト・ドヴォルジャーク[1841-1904]は、プラハの北約30kmほどにある、ネラホゼヴェスという小さな村の肉屋で生まれた。幼い頃から音楽的な才能を見せたため、実家が没落しかかるなどの困難があったが、伯父(同じく肉屋で、トランペットの名手でもあった)の経済的援助などのさまざまな支援を受けてプラハのオルガン学校に通うことができた。
卒業後は、カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、その傍らで金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となった。この2人のうち、女優でもあった姉ヨセフィーナに恋心を抱くも失恋し、この時の想いが歌曲集『糸杉』をはじめ、様々な作品に昇華されることとなる。なお、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲は実は2曲あり、習作的な最初の作品(イ長調)はこの頃に書かれたとされる。やがて、作曲に時間を充てるためにオーケストラを辞して個人レッスンで生計を立てるようになったが、この生活の中で生まれたカンタータ「白山の後継者たち」の初演の際にチェルマーク家の2人の娘のうちの妹アンナと再会し、結婚した。
時は流れて1894年、ニューヨーク・ナショナル音楽院院長職にあったドヴォルジャークに同郷のチェロ奏者、ハヌシュ・ヴィハーンから協奏曲の作曲依頼があり、着手をした。しかしその頃、1893年のアメリカの大恐慌をきっかけとしてナショナル音楽院理事長ジャネット・サーバーの夫(音楽院の最大のパトロンであった)が破産寸前に追い込まれ、ドヴォルジャークへの報酬の支払いも度々遅延したことから、チェロ協奏曲の作曲がいったん完了したのを機にチェコへと帰国することとした。また同じ頃、夫人アンナの姉であり、かつての想い人でもあったヨセフィーナが重病に伏しているという報が入り、彼女が好んでいたというドヴォルジャーク自作の歌曲「一人にして」を作曲中のチェロ協奏曲の第2楽章に引用した。ドヴォルジャークが帰国して1か月ほどでヨセフィーナは亡くなった。彼女の死後、ドヴォルジャークはチェロ協奏曲の第3楽章のコーダに手を入れ、4小節しかなかった部分を、第1楽章の回想と再び歌曲の旋律が現れる60小節に拡大した。
1895年8月にドヴォルジャークのピアノ伴奏で試弾したヴィハーンは、ソロパートが難しすぎる、カデンツァを入れようなどと提案したがこれにドヴォルジャークは激怒し、ついには世界初演をヴィハーンではなくレオ・スターンに任せることとなった。イ長調の(習作の)チェロ協奏曲を書いていた頃に心を寄せていたヨセフィーナに対するさまざまな想いが募り、本作の作曲にあたって重ね合わせられ、強く思い入れがあったことからこその激怒であったのだろう。ブラームスはドヴォルジャークを国際的な作曲家へと地位を引き上げた立役者の一人であるが、この作品を知ったブラームスは「人の手がこのような協奏曲を書きうることに、なぜ気づかなかったのだろう。気づいていれば、とっくに自分が書いただろうに」と漏らしたと伝えられる。それほどまでにこの作品は完成度が高く、またこんにちでもチェロ協奏曲というジャンルにおいて重要なレパートリーであることは間違いない。(みよし)
◇ブラームス:交響曲 第4番
ヨハネス・ブラームス[1833-1897]は1882年1月、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータ第150番『主よ、われ汝を仰ぎ望む』の終曲「わが苦しみの日々を」(4小節のバス主題に基づくシャコンヌ)を思いながらシャコンヌ主題の楽章を持つ交響曲について考えていたという。この時期は交響曲第3番の作曲前であるが、その時期から交響曲第4番の終楽章の構想を練っていたということになる。
交響曲第4番は1885年に完成するが、この作品には擬古的な技法が用いられている。例を挙げると、
・プラガル終止(アーメン終止とも。第1楽章)
・フリギア旋法(第2楽章)
・シャコンヌ(明確な使い分けはないが、人によってはパッサカリアともいう。第4楽章)
あたりであろうか。
このあたりまではよく聞く話で、このような話をすると「結局この人は最後は古典回帰か」となりがちなのだが、筆者が注目したいのは調性である。
18〜19世紀には数多くの交響曲が作曲されているが、その調性には偏りがある。それは、管弦楽の基礎は弦楽器にあり、弦楽器がよく鳴る調が好まれたからである。しかし時代が下ってピアノが台頭し、作曲作業を基本的にピアノで行うようになると、12半音は対等になり、途端に調性は自由になるのである。
本作はホ短調であるが、ホ短調の交響曲は本作以前には作例があまりない(さすがに多作のハイドンには作例がある:第44番)。しかし、1885年に作曲されたこの作品を境に、チャイコフスキー(第5番、1888年)、ドヴォルジャーク(第9番、1893年)、シベリウス(第1番、1899年)、マーラー(第7番、1905年)、ラフマニノフ(第2番、1907年)とホ短調の佳作が量産される。そのような意味では、擬古的な手法が注目されがちな本作であるが、実は後期ロマン派の入口に立つ、記念碑的な作品であったと言えるのではないかと思う。(みよし)