本日は、なごみ管弦楽団第19回定期演奏会にお越し頂き、誠にありがとうございます。「名曲を楽しく、なごやかに」今年の演奏会では、ドイツ・ロマン派の作曲家たちが織りなす、物語性豊かな3つの作品をお届けします。

ウェーバーの歌劇『オベロン』序曲は、幻想的な妖精の世界へと誘う、華やかでスペクタクルな一曲。

続くシューベルトの交響曲第7番は、『未完成』という愛称で親しまれ、甘く切ない旋律と劇的な展開が聴く人の心を揺さぶります。2楽章で突如途絶えるこの作品に、あなたは何を感じるでしょうか?

後半は、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』。若きメンデルスゾーンが旅したスコットランドの壮大な風景や荒々しい自然、そして古城の神秘的な雰囲気が見事に描き出されています。激しい嵐のような楽想から、希望に満ちたフィナーレまで、壮大な音楽の旅をどうぞご体験ください。

なごみ管弦楽団 一同

演目紹介

◇ウェーバー:歌劇 「オベロン」 序曲

カール・マリア・フォン・ウェーバー[1786-1826]は現在のドイツ・リューベック近郊のオイティーンに生まれた。父方の従姉のコスタンツェはモーツァルトの妻である。

9歳より音楽教育を受け、11歳にして初のオペラ『愛と酒の力』を作曲するが、翌年に火事で焼失してしまった。20代から30代の前半の頃にはプラハ歌劇場→ドレスデン歌劇場に属し、ドイツ・オペラの確立を図った。そして1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演されると大反響を呼んだ。この『魔弾の射手』の成功によりドイツ・ロマン派オペラの様式が確立され、リヒャルト・ワーグナーへの流れを導くこととなる。

『オベロン、または妖精の王の誓い』が作曲されたのは1825年〜1826年のことで、この頃ウェーバーは結核を患って死期を悟っていたこともあり、作曲作業は急ピッチで進められた。病を押して渡英し、自ら指揮棒を振った初演は成功したが、その後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳であった。

初演は大絶賛を博した『オベロン』であったが、こんにちでは台本が支離滅裂と評されていて(元の叙事詩の英訳がよくなかった上に、他の作品の要素を付け加えていた)、オペラとしての上演の機会が少ない上に、ドイツ語版で行われることが多くなってしまった。(みよし)

◇シューベルト:交響曲 第7番 「未完成」

フランツ・ペーター・シューベルト[1797-1828]は25歳の時にグラーツ楽友協会から「名誉ディプロマ」を授与された。シューベルトはこの返礼として交響曲を作曲することにした。しかし、シューベルトが送付したのは第1楽章と第2楽章だけで、残りの楽章は送
付しなかったとされる。これがこんにち≪未完成交響曲≫と呼ばれる本楽曲である。

第2楽章までで作曲が中止されたことについては諸説ある。例えば「第1楽章を4分の3拍子、第2楽章を8分の3拍子で書いてしまったために、4分の3拍子のスケルツォがありきたりなものになってしまった」というもの、もしくは「シューベルトは、第2楽章までのままでも十分に芸術的であると判断し、それ以上のつけたしは蛇足に過ぎないと考えた」という説などである。なお、第3楽章(スケルツォ)については前半のスケッチが現存する。もっとも、シューベルトは本楽曲以外に5曲の未完成交響曲があり、作曲作業中に意欲を失う、もしくは別のモチーフの楽曲の作曲へと目移りしてしまう癖があったという可能性も否定できない(1825年には交響曲第8番≪グレート≫の作曲に取りかかっていることを鑑みると、この可能性は大いにありうる。ちなみに、≪グレート≫の初演の指揮を担当したのはメンデルスゾーンである)。

さて、シューベルトの交響曲は歴史的経緯によりナンバリングルールが3通り存在する。古くは、完成し
ている7曲に番号が順に振られ、≪未完成≫はその次の8番が振られた(このとき≪グレート≫は第7番)。しかし、1951年のドイチュ目録においては、ピアノスケッチが完成しオーケストレーションを行えば演奏可能となる交響曲ホ長調を完成と見なし、作曲順に整理され、第7番の番号が与えられている(この時点では≪未完成≫が第8番、≪グレート≫が第9番となっている)。現行の新シューベルト全集(1978年のドイチュ目録改訂)においてはピアノスケッチのみの交響曲ホ長調を演奏不能と分類し、番号から除外した。これにより≪未完成≫は第7番、≪グレート≫は第8番の番号が与えられることとなり、こんにちに至る。(みよし)

◇メンデルスゾーン:交響曲 第3番 「スコットランド」

ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ[1809-1847]は1829年のスコットランド旅行中、家族への手紙の中で「スコットランド交響曲の始まりを見つけた」と言及し、第1楽章冒頭の旋律の原型を書いていた。公式には副題の付されていない本楽曲であるが、メンデルスゾーンは個人的な手紙や献呈先などについて語る際に「この曲とスコットランドのつながり」についてたびたび言及している。

メンデルスゾーンは速筆で知られる作曲家であったが、翌1830年にはイタリアへ旅行して第4番『イタリア』の作曲に取り掛かり、1835年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となるなど、多忙のために本作の作曲は10年以上ほとんど進まなかった。全曲が完成したのは1842年1月20日のベルリンにおいてであり、メンデルスゾーンは既に33歳になっていた。

メンデルスゾーンはユダヤの家系の生まれであり、それによりいわれなき迫害を受けることが多かった。生前はバッハの『マタイ受難曲』の蘇演などでその業績は評価されていたが、死後、1850年にはワーグナー著の論文「音楽におけるユダヤ性」で芸術性を否定され、またナチス・ドイツ政権下においてはメンデルスゾーンを含むユダヤ人作曲家の楽曲の公演を禁止された(もっとも、その後もしばしばメンデルスゾーンの音楽は演奏されており、1935年にはベルリンでヴァイオリン協奏曲ホ短調が録音されている)。1892年にはライプツィヒにメンデルスゾーン記念像が建造されたが、これも1936年にナチス将校により引き下ろされスクラップにされる憂き目に遭っている(ライプツィヒ市長が出張で不在のタイミングでの出来事で、市長がライプツィヒに戻った際には抗議をした。銅像が再建されたのは2008年のことである)。メンデルスゾーンの名誉が回復されるのはナチス・ドイツの影響を脱する第二次世界大戦後のことである。(みよし)